詩を封入しようという試みが記号。

レトリックは方法。
イメージのづれや、文法のかけ違い、反復や韻律は、
情報の取捨選択から私たちを解放した。
重ね合わせの像が、重ね合わせであることは、像がづれることによって知ることができる。

まっとうな文法、まっとうな展開の文字列は、一見まっとうな言葉であるが、情報伝達やお願いでもないことで
人称とベクトルの逸脱が起きている。そこにづれが生じている。

4/15日。窯くるよ。

言ってることが普通だと思われたら到達。
すごいことです。
よく分からないと思われたら出発。
どりょくしないと。
間違ってると思われても結果。
どっちが間違ってるのか。

道具は、偶然や奇跡や偶然などどんな方法でも準備する。
話しかけるときに何をどう使うのか多少気にする。

自分が意図を見失っていれば、シンプルにそれは無意図だな。

それを伝えることが難しいだけ。自覚し続けることが難しいだけ。

だけどその時々は無意図でいられる。
別に無意図でいたいわけではないけど。

意図をもた無いことをするときは、ものすごく意図的であらねばならない。何処にも焦点があわないように、ずらしつづけなくてはいけない。たまに合いそうになったり、なんなら合わせたりしていかなくてはいけない。起点がなければそこからの距離を表すことができない。果たしてどこまで逃げ切れるのだろうか。こうなってしまうのは、無意図が意図をもつからだ。いろに溢れた世界で、無色は無色なのか、本当に無色でいられるのか。

その時何が起きたのか、どうしてなのか、様々なことが後になってわかることがある。

何か作る上でも、そういうことがある。あとでわかってくる。あとで見つけたりする。

大切なのは、現出させること。その時をとどめておかないこと。

何も見出せない物でも、作ること。

あとはその後のこと。

ランダムから何を感じられるのか、そこに自分を晒していく環境を作る。そういうセッティングをすることの面白さ。があるかも。

視覚的聴覚的新鮮さは、新鮮さを与えてくれる。
それが慣れに変わっていった時、それは何を与えてくれるのだろうか。

何を感じるかは、あなたの自由です。という作品があることも、その良さも、必要性も、感じるし、そういうスタンスを自分もとっている。だけど、作った人がまず、その完成品から何かを感じ取れたんですかと思うことがある。無関心や退屈以外の感情で。だけど、ただ露出するだけということの価値も意味も確かにある。作者すら意図しない、計画もしない、予想もしない、メッセージもない、ただ現象をその場に現すだけという行為は無価値ではない。全てに意味と価値とメッセージを求める世界があるとするなら、大きなメッセージを与えるだろう。良い作品ができることだって普通にありそう。それでも自分のバイアスから何処まで逃げられるのかは謎のままです。しかも結局は、それもこれも含めて見た人が判断するのだけれど。

大抵は、作ってから発表までにタイムラグがあるのだから、発表するという時に、何かしらの意図が入るのだろう。色んな種類の意図。

話飛ぶけれど、意図はあっても無いことと同じだし、無くても有ることと同じだ。

生きることは自然を形作ることになってる。

こういう文章を書くことに、意図はないけれど、予感はありました。
書いたらどうかなという予感。書いてみてもよいんじゃないかという予感、なんか面白い作用ありそうという予感。

書いた後に、自分には良い作用あります。

でも、もしこれを誰かが呼んだとしたらイライラするあけだろう。

信用が大事でもあるので、自分にとってのよいこともなさそう。

だけど、どんなに本音を語っていそう時でも、本音を語っている人は少ない。隠している。
隠しているけど、バレていることはある。

展示の準備しています。日本家屋を建てるみたいに、建具にあわせて部屋をつくり家をつくっています。だから家ができあがってから建具を変更しようとすることが、とてもすごいです。

Bitter Sweet シンフォニーながく聴いてる。pvに涙でるあたり、自分のことがわかる。後半の目を閉じて開けて一瞬泳ぐというところ、その一連にそこまでの積み増さねが乗っかる。気がした。仕草に感情を読み取ってた。
その読み取りは、自分のメカニズムが導き出したものだ。半分は特有の表象だ。過去と未来が僕を引っ張りあってるきがするよ。

史実は違うと思うが、もしVcがあらゆる物質の中からレモンから初めて見つかり、他のものからは見つけられない時、VCつまりビタミンcはレモン特有のものだと思われるだろう。この時、ビタミンcのないレモンと有るレモンのどちらもレモンであるし、見つかっていないみかんの中のビタミンcはビタミンcである。のか?

何に何が多く含有されているのかは、人によってかわる。

小説や映画は、空の器(鏡)自体のディティールに意識を奪われがちだけど、

そういうものたちから、おおく詩の作用を受けている人もいるのだろう。

詩は詩の象徴にすぎない。

ほうれん草が鉄分の象徴にすぎないことと同じ。

レモンがビタミンCの象徴に過ぎないことと同じ。

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