進捗状況報告します。
スタンディングスタイルの手ろくろmizubikiでの成形は、ようやく狙ったサイズと形が揃えれるようになってきました。
乾燥のさせ方と、削りのタイミング、削り方は、まだ手探り状態です。
初期乾燥室は、最初、湯たんぽが熱源だったのですが、温度の上昇が弱く断念しました。それで別のシステムを導入したら、温度40度以上、湿度70パーセント以上、くらいまで(高温多湿地帯)になりました。
これからデータを取り集めていきます。
成形後、何時間そこに入れるのか、内容量と温度と湿度の関係はどうか、ひび割れが入ってくるかどうか、などなど。
全部経験し調整していかなければいけない。独学の難しさと、喜びと、めんどくささと、やりがいがあります。
ここまで敢えてスローペースでやってきてるけれど、これでよかったと思う。まだ燃え尽きずにいます。
おめでとう。
みんなちゃんとして見える。
たのしみのアンテナ。それを立てる図。
なぜか躍起になって、作為と無作為について考えている。
ものを作ろうとしているからなんだけれど、攻撃的な感情がでてくる。
作為と無作為においては、作り手と、出逢い手では、言葉が変わってくると思う。
作為という言葉は、否定的な意味で使われていることが多いと思う。いやらしいとか、厚かましいとか、不純だとか、だいたいそんな感じだ。反対に無作為は肯定的だと思う。安らぐとか、受け取りやすいとか、なんか、そんな感じだ。
でも、本当にその通りなのか?と疑問に思う。
受け手が感じる感覚は、そうなのだとしたら、そうなのだろう。そうであるんだから。
でもたぶん、騙されています。無作為風なものの外観に、うっとりしているんだと思う。
作り手においては、受け手の言葉で、思考をしていたらいけない。
作り手にとっての無作為は、無神経だ。または放棄だ。正確には錯覚だ。
無作為は、作為がなければ存在できない。
作為があるなら、必然的に自動的に、無作為は生まれる。
だからただただ、作為することだけが無作為だ。
無作為を作為することは、模倣だ。自分を模倣するだけだ。
その自分の薄伸ばしにどんな意味があるのかわからない。
作り手の自分が、無作為をしたいなら、無作為を作為しないことだ。作為あるのみだと思う。無作為は、自分の手の届く範囲の、水平線や地平線の、2cm先に存在している。
そんなもの、ありはしないし、価値もないと、思うべきだろう。
無作為は、見ることを諦めて後ろを向いた瞬間に、はじめて背後で勝手に生きられるものだろう。
しかし、ひとは、錯覚で安らぐことができる。錯覚で病気も治るし、錯覚で、幸せになれる。
ぼくが無作為を否定してかかるのは、無作為に惹かれているからだ。
ぼくが無作為を否定してかかるのは、無作為に価値を認めるからだ。
無作為であろうとして、作為しろと言い聞かせている。
ぼくは無作為を作為しちゃってるわけです。