自分の名前をどうしようかと、数ヶ月の間、まよったり悩んだりしていたのですが、オカサトシという名前で、今日から活動をしていくことに決めました。一度さよならした名前なのですが、見つめ直すと、この名前がいいなとおもいました。オカサトシってどんな名前なのかな?どんな意味があるのかな?ってことが気になって来たので、漢字に直して見たりマドモアゼル愛さんの考えに照らし合わせて見たり、自分が名前にどんな期待をしているのかを汲み取り直したりしました。そうすると、今まで知らなかった意味がこの名前の中に入っていること、自分の向かいたい方向の指針が隠されていることに気づきました。気づいたというか、でっち上げているというか、言い方はいろいろありそうですが、見つけました。森田ムー子や左側暗子という名前の中にも様々な想いや適当さがあり好きなのですが、より自分の興味の中心に近いものに近いのがオカサトシだと思えました。カタカナである理由は漢字が様々に当てはまることと、現実と虚実の間を彷徨う必要があるからです。その方法として妥当なのかは謎なのですが、想いや願いを込められることが自分には大事なので、カタカナは平仮名やアルファベットよりも、受け止めてくれる器に思えるので、カタカナです。自分は人に会うのが怖くて引きこもっていたことがあるのですが、それは人に興味がないとか、嫌いだということではなくて、人に会いたいし人に興味があるからそうなっていました。音楽とか絵とかでもそうかもしれないけれど、好きであるがゆえに、拘りが生まれたのだと思う。思いが強くなり拒絶する方向にも大きな力が働いたような気がします。なにが言いたいのかというと、興味があるから、怖い。ということがあると思います。拘りがあるから受け止められないです。もしかしたらだけれど、目を背けてきたものの中に、譲れない拘りがあるのかもしれません。そういうときは実は自分が大切に思っているものなのかもしれません。もしもそのような感じでそっぽむいているものがあるとするなら、もう少し体の向きをそちらに向けてみようと思います。ということで、やはり自分は、詩という言葉の先にあったものについて、想いを馳せていきたいです。最近思っているのは、詩は詩の外側を知りたいと思っているということです。僕たちは「今」全知全能であるけれど、外を知りたいです。詩も全知全能なんだけれど、全知全能の外を知りたいはずです。愛という言葉と全知全能という言葉が近いところにあるのなら、愛も愛の外にあるものを知りたいと思っていると思います。きっとだけど、愛は寝返りをうちたいのだとおもう。目の前の景色を変えてみたいなと思っていると思う。僕たちは自身が(誰かにとっての)詩でもあるし、詩を見つけ全知全能に気づきを与える存在でもあります(たぶん)。詩を通して愛(全知全能)の形を変えたりして、寝返りの手助けをできる可能性があったりなかったりするのかなと思う。寝返りの方法は、全知全能自身がわかっていないことだから、知りたいし、僕たちがいるのだと思う。
名前が定まっていないので、
ここにインスタグラムのリンクをはります。
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https://www.instagram.com/rdp_staff/
Laurie Torresさんのアルバムが発売された。
先に購入出来た1分31秒の曲を、リピートして聴いたり、ハッペルベルのカノンとの2曲でplaylistを作るくくらいには好きになっていたから、アルバムサイズでLaurieさんの音楽に浸れるのを心待ちにしていた。
だけれど、アルバムの長さは11hunnだった。11分だった。
だけれど、やはり期待していたような感じでもあり、新鮮に感じるものもあり、すごく好きな音楽だったし、インスピレーションももらえたり、この先の音楽があるとするなら、それもとてもたのしみに思える音楽でした。
よい音楽家に出逢えてうれしいです。
やりたくないことを、沢山してきました。
だけれど、それがやりたかったのかもしれません。
本「そらける」や「くらげランプ」を読んでいただいた方には、
伝わってくれるかもしれないので書いてみますね。
オカサトシは、劇場型の表現をする存在でした。
役回りだったともいえるかもしれません。
ずっと『きみは〜」から始まる文章を書いて来ました。
自分が書くこと、自分で製本すること、手売りすること、
それらが全て、必要なことでした。
どれが抜け落ちても、自分は救われませんでした。
オカサトシは、ノンフィクションかもしれないことが大切でした。
それが自分にとっても、作品にとっても、受け取ってくださった人にとっても、
大切でした。
ただ、ここにきて、すこし居心地の悪さを感じて来ました。
オカサトシは自分へのアンチとして、暴れてくれて、
(オカサトシを盾にして、割と好きなことして来ました)
自分ではできないことや、しないこと、避けることを、
だいたいやって来てくれました。
それは、自分の弱さを乗り越えたいとかいう気持ちもあったと思うし、
普段みれない景色を見に行きたいということもあったと思います。
自分が引っ込みたい時は、前に出て行ったり、
口を閉ざしたい時は、話しかけたりしていました。
こういうことをして来て、よくなった部分もあるのだけれど、
そろそろいいのかなと思って来ました。
心と行動が一致しないことは、少なからずどこかにダメージがあるように思うし、
心に反する行動をとることは、10何年間もやっていると、心に反することにならなくなってきているようにも思うのです。
天邪鬼でやっていたことがあったとして、ずっとそうだったとして、それが形式化してしまっている時に、
もう天邪鬼の先は読めるわけだし、もう天邪鬼ではなくて、従順な鬼なわけです。
言ってしまうなら、それもこれもどれでも自分なわけなのだけれど(老子?)
自分の気持ちと、自分の行動を、今までよりも誤解の少ないように合わせていけたらいいなと思っています。
いままで見ていなかった景色をみれたらいいなとおもうからです。
あはは
オカさん、たすかりました。
ありがとう。
さよなら。
アンチ自分がオカサトシ。
だけど味方。
英語を日本語に訳すことなく、英語のままで受け取り思考するように、詩を言葉に訳す事なく、詩のままに感受するとたのしいです。 詩は言葉を使って、言葉から離れて 詩は言葉による認知ではないから、抽象化されたもの(言葉とか)に触れる事で、抽象化されていない世界(生命や宇宙?)に触れる事ができる。 抽象化愛好家の本当にしたい事は、抽象化されていないものに触れる事だったようです。 Zipファイルを解凍して、その中で浮かびたいです。 ぼくは抽象化されたものは全て言葉だと感じています。言葉は文字に限定されないと思っています。
「これが詩だよ」と言われてみても、「はぁそうですか・・」となるのは、詩は自分で見つけるしかないものだからです。 食べ物は口に入れたりできて、尚且つ多少なりとも消化できるものの事だと思いますが、(ビー玉は食べれるけれど食べ物じゃないと思うから。) それと同じで、詩も口に入れられるだけじゃなくて、消化のような「何か」が必要だと考えています。 自分はこの何かについてアイデアがあって、何かとは「認識」だと思っています。 その認識って「わかる」事だけではなくて「わからないし」もありだと思っています。 そしてこの認識は、その人自身がするものであるから、誰かにとっての詩が、別の人にとっての詩になるとは限らないし、その味わいも同じとは限らないのです。きっと。 ですがこの事はラッキーな事でもあって、自分さえ良ければ、詩は言葉に限定されないのです。 そしてこの事は心地よいこと(体験)だと自分は思っているので、うれしいことです。 時と場合にもよるけれど、基本的には翻弄されるよりも、知って選べる事が好きだからです。 世の中で使われている詩という言葉には、発声や音の遊びのようなものを指し示すこともありますね。 きっとこれも厳密に精査していくと、詩とそうではないものがあるのではないかなと考えたりします。 遊びとか冗談とか、本気の中にも気の抜けたものの中にも、どこにでも真実の姿みたいなものが貼り付いているのだと思っています。 もし詩人がいるとしたら、詩を作った人以外の全ての人だと思います。(宇宙の姿を詳らかにする全ての人だと思います)。提示する側ではなくて、出逢う側だと思います。 ですが実は作った(何かを現象させた)人は「出逢う側」でもあるので、詩人といえば詩人なんですが。 時は止まらないので、グラデーションに感じられます。
鳥を撮りました。(考える為に書きます) それが抽象的かどうかなんて、受け取る人の感性によって様々で、ぼくが何も汲み取れないものの中に、あらゆるものを汲み取れる人がいると思う。 抽象的なものは抽象化が(僕にとって)足りていないけれど、抽象化を進めた先にあるものは抽象的なものだ。それは具体的な構造を持っていたとしても、というか、具体的な構造を持っているはずで、具体的に抽象的なはずです。 よくよく考えてみると、認知の最終段階は自分の目の前にあって、最後は自分が抽象化しているんだ。誰かが抽象化したもの(その度合いは様々で)や自然に囲まれていて、触れて、さらに抽象化しているのが自分たちだ。もしくはトレースさせてもらっているのが自分だ。 抽象的なものを抽象化しきれていないのは自分の責任で、だからそのことについて誰かを責める事はおかしいことです。 抽象化する能力を誰もが持っていて、特徴が違っていて、感性が違っています。 世の中にはいろんなレベルの抽象的なもので溢れていて、自分の能力がどこに反応できるかなんだ(何がって思うけど)。面白がれるか、意思疎通ができるかはそこに関わって来ると思う。 善悪や優劣ではない、純粋な違いだけがあって、ぼくはもっと雑多なもの複雑なもの自然なものへの感性がほしいです。 「抽象化しない」という感性も「抽象化」の方法ならば、 それを知っていきたいです。 豊かなものはきっとそっちにあるし、無限に終わらない広がりがあると思う。 だからぼくはそこから逃げたかったのかも知れない。 何かを手中に収めないと不安だったのかも知れない。
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鳥を撮りました。 世界の理解(又は不理解)とそれに対するレスポンスは、抽象化という形をとって、現象している。 声を出すとか、言葉にするとか、身振り手振りするとか、本や映画を作るとか音楽を奏でるとかによって、世に行き渡り伝承している。 そのような抽象化されたものは、ぼくに世界の捉え方を教えてくれる。さまざまな視点がある事、さまざまな可能性がある事がそれらによってわかってくる。 ぼくたちがこの場所で行うあらゆる活動は、何かしらの抽象化の結果であり、世界は抽象化されたもので溢れている。もとより、ぼくは抽象化する事でしか、世界を把握することができないため、世界は抽象化されたもの(そして僕によって抽象化されるもの)で溢れている。 それらは、自分や自分の外に何があるのか、どんな意味があるのか、どんな価値があるのか、どんな・・・があるのかという終わらない問いに答え続けている。 僕たちは世界に対して、目の前の現象に対して、何を感じていてもいい。どんな視点を持っていてもいい。あたなが見つけることができたものは、嘘ではなくて存在していたものの発見になる。 ぼくたちはそれぞれの立場から、世界に向き合い、モノを作るなどの様々な方法で他人と関係し、共有し、世界の姿を知ろうとしている。 ぼくたち一人一人が、生きているから、世界の姿は詳らかになる。
こんにちわ。どうしても唐突ですみません。自分は 抽象的なモノより、抽象化されたモノが好きです。 抽象化されていないモノや集合って、とても抽象的な存在だと思うんです。 (3次元を2次元で現すような事が好きです。) でも世の中で言われる抽象化って、逆のベクトルを向いているような気もします。 ぼくはいろいろ間違っているのかも知れません。 言いたい言葉が先行していて、思考はずっと後ろを歩いています。なんか家に帰りそうです。背中が見えます。
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昨日の続きなんですけど、(家に帰ろうとする思考に寄り添い話し合いました)、赤ちゃんが何かを指差したりして「あ-」とかいう時、赤ちゃんは頭の中の何かを抽象化してると思います。でも赤ちゃんは声真似したりとかややこしいので、違う事で考えると、ぼくたちが人に声をかけたり、手紙を書いたりしている時、ぼくたちは、頭の中とか外の何かを抽象化していると思います。 何かって何かというと世界です。その時にその人が住んでいる世界を抽象化して外に現象させていると思います。ぼくはそれが好きです。でもそしたら何でも良くなってきます。おかしいな。 きっと、それを推し進めていったものが好きなんだと思う。
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続きの続きになります。(自分へ向けて書いています) では、他称抽象化愛好家自称が好きな抽象化と、その人が好きな詩はどのような関係になるのでしょうか? 答えは、抽象化が進んだ先にあるものが、詩になりやすいということです。(ここはもうちょっと言葉を選びたいです) ただし、必ずそこに詩があるのではなくて、人と現象の相性によって、その人の中に詩が立ち現れたりられなかったりします。 だけれど、詩が存在している事を感じていられることはごく稀だと思います。誰も、その時点の自分の中に詩があるかどうかなんて、確かめたりしないからです。鏡を探していたとしても、そこに自分を見た瞬間は自分を探しているからです。
3種類の厚み、4種類の形をつくっています。