英語を日本語に訳すことなく、英語のままで受け取り思考するように、詩を言葉に訳す事なく、詩のままに感受するとたのしいです。 詩は言葉を使って、言葉から離れて  詩は言葉による認知ではないから、抽象化されたもの(言葉とか)に触れる事で、抽象化されていない世界(生命や宇宙?)に触れる事ができる。 抽象化愛好家の本当にしたい事は、抽象化されていないものに触れる事だったようです。 Zipファイルを解凍して、その中で浮かびたいです。 ぼくは抽象化されたものは全て言葉だと感じています。言葉は文字に限定されないと思っています。

「これが詩だよ」と言われてみても、「はぁそうですか・・」となるのは、詩は自分で見つけるしかないものだからです。 食べ物は口に入れたりできて、尚且つ多少なりとも消化できるものの事だと思いますが、(ビー玉は食べれるけれど食べ物じゃないと思うから。) それと同じで、詩も口に入れられるだけじゃなくて、消化のような「何か」が必要だと考えています。 自分はこの何かについてアイデアがあって、何かとは「認識」だと思っています。 その認識って「わかる」事だけではなくて「わからないし」もありだと思っています。 そしてこの認識は、その人自身がするものであるから、誰かにとっての詩が、別の人にとっての詩になるとは限らないし、その味わいも同じとは限らないのです。きっと。 ですがこの事はラッキーな事でもあって、自分さえ良ければ、詩は言葉に限定されないのです。 そしてこの事は心地よいこと(体験)だと自分は思っているので、うれしいことです。 時と場合にもよるけれど、基本的には翻弄されるよりも、知って選べる事が好きだからです。 世の中で使われている詩という言葉には、発声や音の遊びのようなものを指し示すこともありますね。 きっとこれも厳密に精査していくと、詩とそうではないものがあるのではないかなと考えたりします。 遊びとか冗談とか、本気の中にも気の抜けたものの中にも、どこにでも真実の姿みたいなものが貼り付いているのだと思っています。 もし詩人がいるとしたら、詩を作った人以外の全ての人だと思います。(宇宙の姿を詳らかにする全ての人だと思います)。提示する側ではなくて、出逢う側だと思います。 ですが実は作った(何かを現象させた)人は「出逢う側」でもあるので、詩人といえば詩人なんですが。 時は止まらないので、グラデーションに感じられます。

鳥を撮りました。(考える為に書きます) それが抽象的かどうかなんて、受け取る人の感性によって様々で、ぼくが何も汲み取れないものの中に、あらゆるものを汲み取れる人がいると思う。 抽象的なものは抽象化が(僕にとって)足りていないけれど、抽象化を進めた先にあるものは抽象的なものだ。それは具体的な構造を持っていたとしても、というか、具体的な構造を持っているはずで、具体的に抽象的なはずです。 よくよく考えてみると、認知の最終段階は自分の目の前にあって、最後は自分が抽象化しているんだ。誰かが抽象化したもの(その度合いは様々で)や自然に囲まれていて、触れて、さらに抽象化しているのが自分たちだ。もしくはトレースさせてもらっているのが自分だ。 抽象的なものを抽象化しきれていないのは自分の責任で、だからそのことについて誰かを責める事はおかしいことです。 抽象化する能力を誰もが持っていて、特徴が違っていて、感性が違っています。 世の中にはいろんなレベルの抽象的なもので溢れていて、自分の能力がどこに反応できるかなんだ(何がって思うけど)。面白がれるか、意思疎通ができるかはそこに関わって来ると思う。 善悪や優劣ではない、純粋な違いだけがあって、ぼくはもっと雑多なもの複雑なもの自然なものへの感性がほしいです。 「抽象化しない」という感性も「抽象化」の方法ならば、 それを知っていきたいです。 豊かなものはきっとそっちにあるし、無限に終わらない広がりがあると思う。 だからぼくはそこから逃げたかったのかも知れない。 何かを手中に収めないと不安だったのかも知れない。

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鳥を撮りました。 世界の理解(又は不理解)とそれに対するレスポンスは、抽象化という形をとって、現象している。 声を出すとか、言葉にするとか、身振り手振りするとか、本や映画を作るとか音楽を奏でるとかによって、世に行き渡り伝承している。 そのような抽象化されたものは、ぼくに世界の捉え方を教えてくれる。さまざまな視点がある事、さまざまな可能性がある事がそれらによってわかってくる。 ぼくたちがこの場所で行うあらゆる活動は、何かしらの抽象化の結果であり、世界は抽象化されたもので溢れている。もとより、ぼくは抽象化する事でしか、世界を把握することができないため、世界は抽象化されたもの(そして僕によって抽象化されるもの)で溢れている。 それらは、自分や自分の外に何があるのか、どんな意味があるのか、どんな価値があるのか、どんな・・・があるのかという終わらない問いに答え続けている。 僕たちは世界に対して、目の前の現象に対して、何を感じていてもいい。どんな視点を持っていてもいい。あたなが見つけることができたものは、嘘ではなくて存在していたものの発見になる。 ぼくたちはそれぞれの立場から、世界に向き合い、モノを作るなどの様々な方法で他人と関係し、共有し、世界の姿を知ろうとしている。 ぼくたち一人一人が、生きているから、世界の姿は詳らかになる。

こんにちわ。どうしても唐突ですみません。自分は 抽象的なモノより、抽象化されたモノが好きです。 抽象化されていないモノや集合って、とても抽象的な存在だと思うんです。 (3次元を2次元で現すような事が好きです。) でも世の中で言われる抽象化って、逆のベクトルを向いているような気もします。 ぼくはいろいろ間違っているのかも知れません。 言いたい言葉が先行していて、思考はずっと後ろを歩いています。なんか家に帰りそうです。背中が見えます。

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昨日の続きなんですけど、(家に帰ろうとする思考に寄り添い話し合いました)、赤ちゃんが何かを指差したりして「あ-」とかいう時、赤ちゃんは頭の中の何かを抽象化してると思います。でも赤ちゃんは声真似したりとかややこしいので、違う事で考えると、ぼくたちが人に声をかけたり、手紙を書いたりしている時、ぼくたちは、頭の中とか外の何かを抽象化していると思います。 何かって何かというと世界です。その時にその人が住んでいる世界を抽象化して外に現象させていると思います。ぼくはそれが好きです。でもそしたら何でも良くなってきます。おかしいな。 きっと、それを推し進めていったものが好きなんだと思う。

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続きの続きになります。(自分へ向けて書いています) では、他称抽象化愛好家自称が好きな抽象化と、その人が好きな詩はどのような関係になるのでしょうか? 答えは、抽象化が進んだ先にあるものが、詩になりやすいということです。(ここはもうちょっと言葉を選びたいです) ただし、必ずそこに詩があるのではなくて、人と現象の相性によって、その人の中に詩が立ち現れたりられなかったりします。 だけれど、詩が存在している事を感じていられることはごく稀だと思います。誰も、その時点の自分の中に詩があるかどうかなんて、確かめたりしないからです。鏡を探していたとしても、そこに自分を見た瞬間は自分を探しているからです。

3種類の厚み、4種類の形をつくっています。

この前はなししたこと憶えてる?子供の頃に「和樹くんっていつも笑っているね」って女の子に言われて、それ以来「いつも笑っていること」を封印してたんだけど、今はまたその封印を解いてみたいって話し。なんだけどまた最近そのことを考えていて、やっぱりそのままにしておこうかなって思ってる。なんか過去の自分は明るかったって言いたいみたいになるし、今は暗いみたいになるし、美化していることもあると思うんだ。ぼくは人が僕にかける期待を勝手に創作していて勝手に背負い込んでいたんだ。人の目を気にして、自分の不安を解消するためにずっと自分を演じて来たんだ。だからきっと心地よさの発露ではなくて、何かを取り繕うために笑っていたんだよ。まさか全部がそうとは思っていないし、必要なこともあったと思ってる。でも頓珍漢でもあったと思う。一度、人前でカッコ悪い事をした時に咄嗟に「ごめん」って言ってしまった事があって、そしたら言われた人は「なんで謝るの?」って不思議がってた。自分でも謎だったよ。今は意味がわかるんだけど、だからもういいんだけれど、今更そこに戻る必要はないかなって思って来たよ。 なんかそんな気がしてて、今度は違うことしてみたいと思ってる。どうなるのかなって感じ。うん。話しできてよかったです。今まで付き合ってくれてありがとう。ぼくの話しは終わりです。それで、次、そっちの話は?

【星草】


起きたら歯をみがくようにしている
そんな馬鹿なことをする必要が、
どこにあるんだって思っていたけれど、
なんだか気持ちがいい気がするよ
ぼくたちは知らない
些細なことで心がふるえる
金魚鉢の中の魚が光を浴びて
エサを食べてくれている光景を覗いている
朝ゴミを出しにいったら
動物が散歩している人とすれ違う
いったい誰?なんだっていつも思うけれど
楽しそうに動いているなら
よそ者なのは自分の方だ
世界はいつでも正常で底が知れない
エラーの元を探しに行っても
何処にも何も見つからない

ぼくもそろそろ
画面の中から抜け出そう
嘘の現実のなかに繰り出そう
自分だけのゆにばーすをヒントに
そこにいるはずの君に会いに行こう
君に出会うために
自分のことをはじめよう

他人を中心とした重力の場から離れるように
スイングバイの計算を始めよう
母親の声が共感を求めるように聞こえていても
子供のぼくは違うと言おう
父親がするなといっても
大人のぼくは送迎しますよ
りんごと珈琲の食べ合わせは
想像していたよりは大丈夫だから
ほんのちょっとのことで
世界は反転することを予感できるよ

ぼくはそろそろ
画面の前から立ち去ろう
現実の夢のなかに繰り出そう
自分だけの想いを感じて
そこにいるはずのない君に会いに行こう
いるはずのない君に出会うために
自分の道でつまずこう

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