ポアンカレ予想を証明したというペレルマンは、知の最前線のその先の壮絶な研究の間に、人間性が変わってしまったようだ。人付き合いを避けるようになった事で誰かを悲しませた一方、ぼくは救われている。
100年近く解けなかった問題は、多くの天才たちの人生を賭けたアタックにより、可能性を潰し確かめてきた。彼らが残した踏み込んではいけない領域の執拗なまでの詳細地図は、結果としてアンカーとなったペレルマンの、大きな助けやヒントになったはずだ。
その後、ペレルマンは新しい興味に向かっているという事だったが、少し昔の言葉なので今はわからない。でも嬉しい。ランプが灯った感じだ。

言葉にする事や、言葉に出来なかったことで、「ない」ことになってしまうことが怖いけれど、上書きしていく事で進んで行きたいと思う。
現象させることの方が今は好きなので、「詩」のことを書いてみたいと思います。

塩は、海水や岩などに含まれていて、いたるところにあったけれど人は、そこに塩が含まれているということを知らなかった。
塩は、たとへば海水を煮詰めることによって発見された時、人は、海水に塩が含まれていることを発見する。
そのうちに、岩の中にもあることや、遠いところから来た誰かがプレゼントしてくれたビスケットとかいう食べ物にも、それが含まれていることを発見していく。ごく稀に、塩を甘いと感じる人がいるけれど、塩が塩であることと、それがいたるところに含まれている可能性を否定できないことに変わりはない。塩というものとの出逢いにおいて何を感じたのか、それはその人が決めることができる。
きっと、多くの人にとって塩は、少量食べると健康に良い。それに食べ物を美味しくすることができる。

似たようなことで言えないだろうか。。
詩は、言葉や文字に含まれていて、いたるところにあったけれど人は、そこに詩が含まれていることを知らなかった。
詩は、たとへば言葉を煮詰めることによって発見された時、人は、言葉に詩が含まれていることを発見する。
そのうちに、手旗信号の中にもあることや、遠いところから来た誰かがプレゼントしてくれたホログラムにも、それが含まれていることを発見していく。ごく稀に、詩が何だかわからないという人がいるけれど、そのとおり。それを否定することも、詩がいたるところに含まれている可能性を否定できないことにも変わりはない。詩というものとの出逢いにおいて何を感じたのか、それはその人が決めることができる。
きっと、馴染みのある人にとって詩は、感情に作用する。それに自分の見ている世界を見せてくれる。

*詩を認識する為に、言葉や文字が必要でだったけれど、一度抽出され認識された詩というものは、言葉や文字以外のあらゆるものの中に見い出せるとおもいます。

*海水を煮詰める事は、詩に当てはめると、事物を抽象化していく事だと考えます。抽象化とは「言葉にする事」によって「事物を分つ」事です。「分からなくする」という方向性へ「分つ」事でもよいと考えます。

結局のところ、ぼくは常に器をつくっていたようです。ようです、と書くのは、今になってそう思えるからです。その時々では、何かを作ろうとは思っていませんでした。
ぼくが器という時、それは人が何かを託すことができ、託したもの(こと)を通して、自分(世界や宇宙)を発見できるもののことです。自分を発見しない時、その人が器そのものになっています。
ぼくは、作っているものが器だと、人に認識させたいわけではないので、このようなメカニズムの解釈は、ほぼ自分の為にあるものです。(それに現象しているものは、常に器であるし器でないです。人の中にどのように作用できるかでしかないのです。)
混沌がもつエネルギーは、無自覚が引き出せるのだと感じます。ですから、無闇に現象を整理してしまうことは損だと思うけれど、新たな認識が見せる新たな混沌に出逢うだけなので、自覚に自覚を重ねようと思っています。無の概念がある限り混沌がなくならないという感覚があります。あはは
一方では放棄が導く世界があるのだと思うけれど、こっちがわからそっち側へ行こうと思うのです。気持ちが惹かれるからです。

ぼくの中では、器を認識することと詩を認識することが同じことになっています。器と詩は同じ意味です。もうひとつ書くと、器と詩と自分が同じです。ただし、詩であることは目的ではないし、優劣の優でもありません。どちらかというと、夢中であることが僕の目的です。
だからぼくはstaffのTシャツをきたりしています。
何かに夢中な実行部隊が好きなのです。

オルドビス紀の時代から
萌の萌芽があったと思うとしんみりするよ。

エアレンデルで培われた赤ちゃん返りは、地球でも横行。引き継がれている。

あんまり宇宙って言葉つかいたくないけど、たくさん使おう。
宇宙では、踏襲していくことやなぞらえていくことができるけれど、もうひとつ、見つけることができます。見つけていくことが可能です。ぼくはこの事が奇跡だなと思います。奇跡だと感じるのは、宇宙の仕組みも価値も理解していないからです。不思議に思う事ができて、宇宙の在り方や姿や、宇宙に対する気持ちに、常識とは思えない感慨を覚えるのです。感情の種類と細かさと質感についても、信じられない気持ちになることがあります。芸術や美術や人などについて、信じられないような感情を抱く事ができます。しかもそこには強制されるものがなくて、究極的には個人の自由があります。自分を制御できないという意味においては、全然自由なんかではないけれど、消しゴムを感じて打ち震える事だってできるのです。そして宇宙には、そういう脳内物質というのか、システムというのか、人間が感じることができるどんなに些細な感情も、複雑な感情も、変な感情も、ポップな感情も、ひどい感情も、存在し得ているし、可能な限りどこまでも感じることが可能みたいと思えるところに凄さを感じます。
「みつけること」って、きぼうだなとかんじてます。しらないから見つけることができるし、見つけられたらなんか嬉しい。
生きる意味を僕は知らないでいますが、神様が僕に、「生きる意味」を教えてくださったとしてもぼくはどうやって、それをそうだと了解できるのだろう?と考えます。なんか心の中をいじってもらって、どこかのスイッチを入れてもらわないと、理解できないのではないかと思います。一方で、目下の、暫定的一位な「生きる意味」というのは、自分で見つけていくことができます。「しらない」ということを人質に、見つける自由を得られているわけです。
オリンピックとかでも、新記録というものがあるけれど、知識や感情においても新記録というものはないのだろうか。ぼくはきっとあると思っているし、思っていたいです。
全然科学的じゃないこと書くと、みんなそれぞれがそれぞれの宇宙をいきていると「なぜか」考えていて、みんなそれぞれが、その宇宙の全貌や新領域を「見つけ続けていて」「発掘していて」「作っていて」「開発していて」「見つけ続けていて」更新し続けているし、更新し続けていくことができる。と思っています。採点されているだけではなくて、問題をつくることができる。みたいな。
きみが見出せたものが、宇宙を作っていくし、みんなみつけていきたいのかなと思ってます。

仮想世界を生きることによって、得られる感覚は、現実と言われる世界で得られる感覚と同じような効果も価値もあると思っているけれど、仮想世界が終わった後に、きっと現実世界と言われる世界を経由しなくてはいけない。現実世界と言われているところが、実は仮想世界かもしれないわけだけれど、目の前を無碍にすることは得策ではない。だから小説にもゲームにも漫画にもアニメにも夢中になっていていい。ただし、それならば、現実世界と言われている世界にも夢中になっていていい。「だけど。」

2秒でできる作品もあれば、数日かかる作品もあります。この絵は、絵としては一番時間がかかりました。
しかし2秒で描ける絵も、その形になることに数年かかっていたりします。
書道の作品は、筆を動かしている時間が比較的短いけれど、その一枚を書くまでに膨大な時間の反復練習があったりします。
格のある人の書は、人が格を得るまでに時間を要するし、書道以外の鍛錬が必要だったりします。
時間がかかっていることには、凄みを感じることが多いです。しかし、短すぎる時間にも凄みを感じることがあります。
遺伝子のことや輪廻転生のことを考慮にいれても、その時間がどこを始発として換算されているのかが大事な観点になりそうだ。
いま、宇宙人がいる可能性が、高まってきていると思いますが、いませんか?きみは誰で、なんで?どのくらい時間が経って来たのですか?
個人的には、時間の流れは流れっぱなしではないような感じがしてきています。過去から始まることもありそう。
意識の数だけ違う宇宙があるような感覚を受けています。
それぞれの宇宙を持ち寄っていて、重なったりして、影響を受け合っているような感じがしたりしなかったり。
根拠のない考えを自分が持っていることが、おもしろいなと思ったんですが、よくよく点検していくと、ほぼほぼ科学的な根拠を見失っている考えばかりではないかと思えてきた。もともとなかったとも言えそうだよ。

美術家の飯塚純氏による論考/作品集を読んだ。
「ドーナツの穴は被写体になるのか?」という題名から、
凡そ自分には関係のない事柄についての文章かもと思われたが、
そうではなかった。

ドーナツの穴をどのように捉えるのか。
氏の実践と思考実験とが導き出す言葉に、
問いの答えを自分事として了解することになった。

現在地の確認と、目的地の設定、自ら設置する標識の選定と内容が面白くて、思考の軌跡を興味深く追っていくことができた。
そして見せてもらえた景色は、穏やかな日の朝焼けのようだった。

ドーナッツではなく、ドーナツと表記されているところや、氏が他のドーナトロジストたちからの祝福を受けていることなどが感じられて、この本から伝わる飯塚純氏の「まなざし」と飯塚純氏へ向けられた「まなざし」のどちらともにも「愛のようなもの」が感じられた。
この本をよんでいる間、特に中盤ぐらいからは、
「そっと夜を抜け出し、浜辺に到着したら数人の先客がいて、それを後ろから眺めつづけている」ふうだった。

命運を賭ける意気込みでした展示では、夢や願いを叶えることができませんでした。詩についての認識を共有してみたいという事については、ほとんど誰にも伝わりませんでした。今回の展示は事件になると思っていたし、自分の中では明白な事でもあったので、その実感は自分を苦しめました。ですが今はすがすがしい気分でいます。
そもそも共有する類のものではないと思えてきたし、展示を作ることで理解が深まったからです。
ぼくは何しちゃったんだろうとか、ばかだなぁとか、信用なくなるなとか思ったし、何で詩というものに拘ったり、押し付けたり、固定したりしたのだろうと疑問に思えてきたりもしました。今考えてもとても危険な気がする。
だけど、その理由がわかってきました。
それは、そもそも自分が価値を置くものを、詩という言葉に託したからでした。
魅力的で面白い仕組みの装置だと思えた機構を、詩に組み込んだからなのでした。
別にそれが詩ではなくて、「もに」とかっていう言葉でも良かったのかも知れません。
でももしそれで、「もにってさ、詩のこといってるだけじゃん」とか言われたら痺れるので、詩という言葉を使ったんだと思う。
今回の展示で、いちばん詩になれていたと感じるのはオカです。そこに価値は無いけれど、作品の中でもっとも鏡になっていたと思う。こういうことを書かれて気に障るひとがいるかもしれませんが、そんな必要はありません。詩であることと、面白いことは、別のことだからです。と言い切ることも危険です。自分の理論で言えばってだけですから。だけど、語尾を濁し続けることも、いやなのです。
これからも、既存の価値観に迎合することを目的とせず、自分の見つけた心地よさを表現したり、それを味わえる装置を作ったりしていきたい。

しはからの器-展、終わりました。
敗北しましたが、興奮しました。
色んな事がわかった。
これからもわかっていくだろう。
熱いマンホールに座った猫ちゃんの御伽噺がありますが、もう今回のようなものを打ち出さないだろうし、共有したいとも思いません。
欲望を満たして知っていくこと、納得して自分が変化出来ること、そんなことがほんとうに奇跡だ。
今はとても自由を感じます。それは、展示を通して不自由に貫かれていたからだと感じます。
終わってやっと終われました。

明日22日は展示の最終日です。
詩という星の探索から、ぼくは帰還しました。
最後の展示、来てもらえると嬉しいです。
ずっといたいと思っています。

22日まで開催中の展示は、次の形態へと移行いたしました。
空の器との出会い方が変わると、感じ方が変化するように思います。より言い訳のない姿に変わりました。
美術館は、そこに美術に関わるものがあるという眼差しに気付かせてくれますが、この展示が新たな眼差しの獲得に少しでも貢献できるとうれしいです。自分が得た眼差しは、自分を心地よくしてくれているからです。

今回の展示は、自分の15年間の集大成であり、原点回帰でもあり、スタートラインでもあるなと感じています。
強い重力(引力)を持つ「詩」という星に近づき探索し、帰れなくなる前にスイングバイを決行しました(地表との激突は免れました)。そこで得た資料と、この目で見たものから、この星の素性を推論し、その成果を持ってあなたに歩み寄ろうとしています。それが功を奏するとは限らないけれど、その結果を自分が感じ取れる経験は、今後の話しかけ方に大きな影響を及ぼすのだと思います。共有したい事と、出来ることの差異は、僕の口を閉ざしてくれるのでしょう。
自分だけで抱えているべきものの位置を教えてくれるのでしょう。
展示にまつわる期間中、終始情緒不安定なのですが、展示にかける想いが強かったんだなと自分のことを思います。この展示は様々な心情変化をもたらしてくれています。とてもかけがえのない事です。この事は、会場を用意してくださっている「古本いるふ」様が、普段より長い会期を設けてくださったから起きていることです。いるふさんはこの間に様々な他のイベントを運営したり参加したりもされており、休んでおりません。感謝しかありません。

光は光であれるとよいです。そしてバーチャルリアリティに触れられますように。
今日も器を追加いたしましたが、日曜日に(間に合うなら土曜日に)最後の追加をしたいと思っています。
大きめの茶碗や、手の中に収まるサイズのコロンとしたボール、焼き締まった新しい動物などが加わるとよいのですが。また攻めた変更を加えて焼成に挑んでしまいました。どうしよう。だいじょうぶかな。

「詩という星の重力を使って、私はスイングバイグッバイを決行します。」

しはからの器-展は5/22(19休み)までです。
展示のテーマは「詩」を手に取ってみるという事です。
文字列やグラフィックや動画、器などの様々な作品からテーマにアプローチしています。

展示を作ることは、人に楽しんでもらう為と思っていたのですが、たとへ人に届かなくても自分に向かって届くものがあるのだという事が分かりました。

詩って何だろうという事に興味が湧いて、それを考えることに面白さがありました。
だから、共有したい想いもあり、話しかける事を選んだのですが、多くの人にとっては、馴染みの少ない話題である事が予感させられてきました。
オタク的にコツコツと用意してきたワードを使って、(自分のテリトリーで自分のターンで)一方的に喋っているうちに、(自分だけ)理解が深まっていくという(怪)現象に見舞われています。
そして、もう「詩」という言葉に囚われなくてよいなと思うようになりました。

「詩」という言葉を入口とした、世界の見方があったのですが、その入り口は広大無辺な空間に、ただ立てられただけのドアに過ぎないことがわかってきました。
そのドアを使わなくても、ドアの向こうの世界に行く事が出来ます。ドアの横を素通りしたり、ドアに肩をぶつけながら通り過ぎたりする事ができます。
それどころか、ドアの前に立っているだけでも(いなくても)既に常に、ここはドアの向こう側だったのです。

しはからの器-展の器です。
マット調で、光を吸い込むような白色です。
無釉薬(正確には、ガラスのコーティングをしていないという意味です。添加しているものはあります。)なのですが、汚れもラップもつきにくくなっています。

器は展示販売しています。
掴みどころのわからない詩を、手に取ったらどんな感じ何だろう。そんな風に当てられながら製作しました。
質感や形を、手に取って確かめていただきたいなと思っています。

TOP