「世界に対してどんな情感(気分)を持てるのか、どんな眼差しを持つことができるのか」に興味があります。
世界の姿や仕組みを知ることは、この問いの回答に影響を与えると思うけれど、それは必ずしも必要なことではないことが救いです。どこまでも条件の一つだからです。
またAIに奪われることのない趣味でもあります。
AIは情感そのものには触れられないとおもうから。
そのことを確かめることはできないけれど。
別にAIと張り合う必要もない気もするけれど。
ただ、
この興味は、生命がここまで多種多様な形をとり、不安定で、数多く存在していることへの自分なりの理由になれるし、この状態が引き起こす様々な問題や不調和に対する御守りになれると思っています。
そしてこの興味によく応えてくれるのが、自分にとっては文字列に限らない詩や詩情(気分)です。
詩によって世界と対峙できることは、きっと幸運です。
数式や信頼できる誰かの言説に依らずに、世界を認識する方法として、詩や詩情(気分)があります。
あなたは常に、詩を体験する為の最高の状態にあります。
今ここでは何の知識も道具も必要とせず、どんなに足掻いても間違えることさえできないのです。
他称抽象化愛好家自称で詩情至上主義の私が、ひとつだけここに置いておけるものがあるならば、それは「あいをしらないあなたをしらない」という文字列です。
私が見たいものを見れることと、見たいものを見ていることに気づけることは、自分を心地よくし、視野狭窄な自分を解放すると思うのです。また、詩情=気分によって、全知全能の外がわを覗き見ることができると思っているのですが、その為に「知っている」と「知らない」を行き来する態度があることを、心に留めておきたいのです。
ぼくは私たちが全知全能の内がわを漂うだけの存在だとは思えません。傲慢なのかもしれないけれど、起きたことの再生産をしている存在だとは感じられません。あなたや私の文脈でこそ、見つけることができる気分がある。あなただからこそ得られる眼差しがある。そこへの好奇心が止められなくて、ここまでの多種多様な生命の広がりがある。そんなふうに考えることはできないだろうか。時には傷つくことがあるかもしれない。時には迷惑なことかもしれない。だけれど世界のこの状況は、尽きない好奇心の現れなんだと思う。不幸や理不尽に終わることは、(望んでいないが、)それだけのことでは無いと思っている。これらのことを証明する事はできないけれど、感じたものを否定する能力もない。それならば、可能性であることを確認した上で、自分の心地よさを指針にしてみようと思うし、自分が必要としたものを現象していたいと思う。
ぴ
どこまで見せても
あなたじゃないし
どこまで逃げても
かくれていなくて
およそ人間に必要なものは
多くの人が必要としている。
あなたがそこに当てはまるのかは、
今のところわからない事だけれど、
なんでもいいから言葉のぴぴを
偶然でもいいからかけることが
出来ていたなら
うれしいけどな。
でもこれは、自分だけのたのしみなのだろう。
詩についての共有はやめよう。
そこに何の問題もないから。
自由に自分だけが面白がれる。
論理の飛躍に怖気付かずに、誤解していける。
作っていくものもそうであれるといいな。
それでやっと、考えられる。
自分で決めることができる。
ぼくは「詩」について興味があり、そのつど思うことを書き留めています。
矛盾していたり論理の飛躍がありそうなんですが、書くことが心地よいので、書こうと思う。
焼結する(乾燥して固まる)絵の具の塊を、手で捏ね柔らかくし、空間に色を置いていくことで作られる形は、絵画とは言えないのか。
焼結できる絵の具を楽器とし、音を出した軌跡によって形作られる円盤からは、音を取り出すことが可能か。
果たしてそれらがその様だとして、そうであることは面白いことなのか、そうであることがそのものの価値や心地よさを増幅することはあるのだろうか。
言葉はあらゆる事象を抽象化し、手に取れる様にしてくれるが、言葉が生み出す分節(分断)(境界)に注意深くいれたらいいなと思う。
こういう視線を持っていて興味を持っている時、先に書いた事柄を提示されたりすると、面白い作品だと感じると思う。作品に価値を感じると思う。
美術館(アート作品)の役目の一つは、設によって物事を捉え直す事を促せることだと考えるけれど、では一度、思い込みによって目の前が美術館だと認識する遊びをしようと思う。
効果は5分くらいだと思うけれど、言葉が区切りがちな境界をぼやかすことができたら、面白い遊びになるかもしれない。
そして、作る人にとって、この様な視線を手に入れることはきっと興味深い(可能性のある)ことで、物を生み出す動機やアプローチの仕方にバリエーションがあることは、作品にその機微が反映されることがあるかもしれないし、人の作品にその機微を見ることができる様になるかもしれない。
この様な積み重ねは「言葉」による理解(感受)から人を解放させ、言葉以前のそのもののそのものに触れる機会を増やしてくれると期待できそうです。もしかしたらそこには「詩情」がともなうし、詩情を通して見ることのできる世界はあなたの世界なので、心地よいことだと思うのです。
つまるところ、詩は言葉と結びついているけれど、詩は言葉によって言葉(による認識)から離れる為にあると思う。
なぜなら「詩情」は分断されている何かの「獲得」では無いからです。詩情の性質は全体的な引き受けだからです。自分を引き受けることだからです。
こんにちわ。数学とも視覚とも違う方法で、宇宙の様相に触れる方法として、ポエジーに着目してみます。
ポエジーを感じるという方法で、宇宙の様相に触れられるのではないかなと考えます。
氷は、見たり聴いたり舐めたりという方法で、それぞれの触れ方があるみたいに。
そしてここの逆再生のような事ができれば、氷(詩)を作れるんじゃないかなと思う。
だけれど、その氷を通して生成される感覚は、人それぞれに委ねられて人それぞれのポエジーが生まれる。
人それぞれのものが生まれるから、人がそれぞれである面白さがある。もしもぼくたちが、全知全能の外側を求める存在であったとしたなら、人がそれぞれであることに意味も理由も生まれる。
物事の全てに意味があるという仮説をたてると、人がそれぞれである事の意味から、ぼくたちは全知全能の外側を求める存在だという事を導き出せる。
自分の新記録を更新していくことに、意味を感じる事が可能になる。真実を知らないでいるうちは、可能になる。
こんにちわ。詩は形式と詩情(ポエジー)のことを指すと思う。詩情は、心象風景に出会えた時の感慨だと思う。心象風景は宇宙の姿だと思う。宇宙の姿を知りたくて、生きていると思う。形式の詩は、美術館の役割をしてくれていて、そこで養なわれた感覚は、持ち帰って遊ぶことができる。新しい詩情は、全知全能の外側にあり、見つけられることを期待しているとおもう。期待しているのは自分だとおもう。おもしろいからそうしたいのだと思う。
空の器の「空」というのは、「強要するものではない」というニュアンスで、「シンプル」とか「装飾的じゃない」などの意味とは異なると思っています。器を手にした人の手に委ねられるものであるということです。
この「器」というのは陶磁器やガラスや木工品に限定されるわけではなく、別の名前で呼ぶと「言葉」になると思います。受け手がそこに何かを託し引き出すもののことです。
ぼくの好きなものは、「ここ」と「詩情が作り出す世界」とを繋ぐ扉となる。そして扉の機能を持つものを僕は、詩と呼んでいます。
詩はそれ自体は「空の器」(言葉)であり、その「空の器」に各人は「見出すことのできるあらゆるもの」を託すことができます。託したものは取り出すことが可能で、それは各人の詩情世界(と名付けられるような世界)に反映されます。
詩は「空の器」のことであり、「空の器」は詩情世界への扉になれると考えています。
–「しはからの器」−考
自分が常に気になっている事象と、日頃自分が取り組んでいること柄から、ぼくがどんな渦に巻き込まれているのかを推察し、様相を把握したいと思っています。「しはからの器」という造語を足がかりに言語化する事を試みようとしています。試みています。
手製本本「あいをしらないあなたをしらない」ができました。
好きな自分を選べるために。
好きな世界を見られるものを、作りたいと思いました。
絵の本「ちょっとそこまで」ができました。
作れた本に対して、言葉を書くのが怖いのは、言葉にできなかったことが、無かったことになりそうだから。
また存在していなかったことでも、今の場所から書いてしまいそうになるから。
本をつくりました。手製本本になります。
2007年より、作っては作り直すことを繰り返してきたのですが、
この本で最後です。
「売店です」のコーナー(はじめて稼働?します)にて、
購入方法のご案内もありますので、
もしご興味のあられる方は、よろしくおねがいします。
本を通して、いろいろな扉を設置することになりました。
扉を開ければ、そこに何かが現れるのだと気づいたり、
自分の鍵を使って扉を開ける行為自体が、ぼくを心地よくしてくれるとわかってきたりして、
扉作りに夢中になりました。
古着とか古本とか、いいなと思うことがあるのは、
経年変化した生地や希少性や思い出などの要素が素敵に思えることの他に、
新作が時間が経って、詩に変化しやすくなったからということもあると思う。
どうして変化するようになれたかというと、
自分から「見つけに行く」姿勢を、とりやすくなるからと考えます。
他人から鏡を見せられるのではなくて、自分から鏡を覗きに行けるということです。
詩は、ある場所で確実に把握できるものではなくて、人がそれぞれに見つけていくものだと思っているのですが、
古着や古本、古道具などを愛するような気持ちの一助には、
そこに詩を予感しやすいからということが自覚の有無に関係なくあるのではないかなと思う。