

(しかも自分の作った)仕組みを説明する事を言い訳にする事の終わり。(です。)🍎これからは、現象を現象する事を現象する事を現象します。


(しかも自分の作った)仕組みを説明する事を言い訳にする事の終わり。(です。)🍎これからは、現象を現象する事を現象する事を現象します。

わんっ。

このホームページの「連絡する」から送られたメッセージを、受診していない可能性がでてきました。
数年間受診していない可能性があります。もし、送ってくださっていた方、反応できずに本当に申し訳ないです。
しばらくは、メール
kawairukasyuppann@ gmail. com
もしくはインスタグラムからメッセージなど
https://www.instagram.com/rdp_staff/
へお願いいたします。
すみません。。

カカシと遊ぶ子スズメは、気分が生む眼差しを頼りにして、物事から気分を味わうけれど、不意に訪れる様々な瞬間によって気分は様変わりしていく。
この時、気分に焦点を当て続け、無理やりコントロールしようとすると、気分への採点が始まってしまう。
低得点に感じるものを捌き、自分を裁いてしまう。そのことは何だかつまらなく思う。
だから自由に気分を味わう中で、眼差しがどうなっているのかだけを、気にかけていられたらと思う。それでこうならしょうがないと諦められそうだからです。
うまくいくかわからないけれど、やってみたい。
本来フレキシブルなものの固定に血眼になるより、自然で無理がない気がしています。
それでも気分が落ち込んでしょうがない時は、新しい眼差しを見つけられるチャンスに違いありません。
自然と自分が変化してくれたらいいけれど、うまく適応できない時は他人の力を借りに行こうと思う。世界は他人がその眼差しを持って作ってきた物事で形作られているから、世界のどこかに今の自分だからこそ見つけられる眼差しがあるんじゃないかなと希望します

塗り絵に好きな色をつけるように、自分の世界を見ている。人が作った他の配色に感動したり、絵を書き加えたりしながら、色を塗り替えることもしていて、少しづつ自分が生きたい世界の様子を知っていける気がする。

人(意識)には、それぞれの世界観があり、理想もある。
詩情を感じる時は感動しているが、それは自動的な気がする。出会いを演出する事は可能だけれど、感動を捏造する事は難しく思う。
詩情を感じさせるものを詩だと設定した場合に、誰にとっても当てはまる詩は、あまり見当たらないから、詩は自ずから見つける他無いものである。が、感動は自動的である。
自動的だから、それはきっと自分の姿で、それだから詩情にすがることは、自分を見つめることと似ている気がする。
ごまちゃんは、いつも違う気持ちで違う動きをしている。


本をご購入頂いた方と、これから手に取ってくださるかもしれない方へのご連絡です。
手製本本「あいをしらないあなたをしらない」「ちょっとそこまで」では、画像2枚目の⭕️をした部分の様な状態になることがあります。
まるで本が開きやすくなるクーターバインディングを採用しているかの様ですが、表紙と本文が分離することがあります。
処置として背表紙をなぞってもえるとくっ付くのですが、
この状態になり、気になる方がいらっしゃいましたら、
問題を解決した新しい本をお届けいたします。
申し訳ないのですが、ご一報頂きたいです。
その他も仕様かそうで無いかわからない手製本本です。
もし不思議がありましたら何でもきいていただきたいです。
比較的特徴的な仕様を少し書きますと
・天地はペーパーナイフ断裁の切りっぱなし、
・表紙は一重、
・表紙各角にある黒い点は切り出し時の当たり、
・文字の配置には揺れがある、
となっています。
よろしくおねがいします。

ひとのもっている興味関心と、ぼくのもっているものが、あまり重なっていない気がするな。






富山県にあるgoyaさんでは9/29まで、写真、絵、映像と音声、グラフィック、器と本などを展示させてもらっています。

がぞうを載せすぎて、
ページが重くなってしまいました。。
『愛をしらないあなたを知らない』
きみが飲みきった後の コーヒー缶には水が入っている 飲み口が冬の朝のように光っている そんなことを考えていたくらいだから きみが帰ってくるまでに解ったことなんて、ない ため息の管理に失敗していただとか そういう事は後になってわかったことである でも今はあまり関係ない、窓の内はモクっている 隣の部屋ではそろそろカボチャが煮上がるらしい ちょうど君が息を吐き出すあたりで 同じく息を吐き出していた それから細くて短い煙突を見ていた それを眺める君は微笑みを浮かべた そのように思いたかった こおり砂糖は溶けたかどうか 煙が散乱反射して見える 非日常は日常である 知らないことは山積している 背を向けた君は台所で 刃物を握っている
どんな詩であっても、向こうから押し付けられるのが不愉快なのは、「今」見たくないからです。不用意な時に、これが君だよと見せられても、不躾なやつだなと感じると思います。というか、そういう出会いが鏡になることは不可能です。鏡を見せられる時は注意される時です。ひろい意味で。 鏡は気づいたらそこにあって見惚れちゃったとか、ガラスに何となく自分が反射していて髪型を直すとか、自分から探して歯を磨くとかしたいです。主体が自分側にある時が鏡です。個人的な感想です。 詩には待っててもらいたいです。ずっとそこで待っててもらえたら、本当にいつになるか分からないけれど、見てみようかなと思える可能性に近づけます。その時には、作者がもういなくなっていたり、これを覗いているのは自分だけだ状態になったりもします。(そんな詩と人はもう・・かっこいいよね。) だから、もし詩を作ることを望むなら、望んでしまうなら、怒られることを覚悟して動くしかありません。怒られはしなくても傷つきはするでしょう。30年後に、偶然誰かに出会えることを幸運だと思いながら、物事を現象させるしかありません。 人の手を離れた時、そこに置いてある詩に僕の横顔は映っていると思います。気づかないけど。
客観的な本質的な詩は存在しないと思っていたり、物事が詩である事の付加価値を感じていなかったりするなら、敢えて詩である事や詩人である事を公言する必要が無くて、なんなら、そうじゃないと言っていた方が態度として好きです。 少し残念ですが詩の事を、「もに」って言い直す必要が微塵も感じなくなりました。もう少し言っていたかった気がします。 詩に救われた事があって、夢中になったけれど、どんどん離れていきます。詩というもの、詩を愛する人たちから、1番遠いところに行きたいです。そうなりたいです。