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noteのページをつくりました。
よろしければ、のぞいてみてください。
よろしくおねがいします。

この本を出版したいと思っています。それまで手製本を続けて、人に気づいてもらえる可能性に挑戦します。
手製本本はA6サイズ112Pです。郵送などもできます。
何かご興味が有られる方がいらっしゃれば、お声がけ頂けるとうれしいです。
m(__)m
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インスタグラムやnoteの方に、より多くのサンプルがありますので、もしよろしければ見ていただけたらと思います。



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2007年に、詩と思しき言葉に出逢い、救われた気持ちになったことがあります。それ以来、同じ様な体験を求め心奪われてきたのですが、そもそも詩とは一体何のことで、どうして自分がそのような事態になったのかを、言葉にしてみたいと思いこの本を書きました。 きりもみ状態の自分の座標や向きを特定するには、大きな言葉にしがみついたり、唐突にくびきを打つ必要があったり、しました。


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2011/10/01発行の手製本「くらげランプ」6冊セットです。白色の方は、その8年後くらいに再製本したものです。 8節で1遍になったものが、6冊の中に80遍入っています。 自分の作っている手製本はA6サイズなので、A4の紙に8p分の面付けをして、手書きで清書しています。 印刷は、町の文房具屋さんの両面コピー機を借りてしていました(毎回、原稿の両面コピーから始まりの両面出力なので、1セットに30分くらいかかった気がします)。当時、このような手製本は未だ、zineという言葉よりリトルプレスという言葉の方が主流だった(zineを知らなかったです)と記憶しています。手製本をしている人も周りには居なくて、文房具屋さんで不思議がられていました。 いい思い出になっています。 内容は、暗がりに眩しくない灯を作る事を目指していたと思います。言葉を置くことで、鬱屈した心の出口を作っていくという必要がありました。(それと、ら抜き言葉が多めだと思います。) 直情的に書いた文章を書き溜めておいて、後で理性的に編集する。それによって人に話しかけやすくもしたいと計画して臨んでいましたが、言葉を置くことで自分の気持ちが変化するのかどうかが主な指針になっていたと思います。 「何かを言葉にする」ことと「その言葉を人に委ねる」という体験は、転覆していた自分のバランスをとるのに必要な事だったように今は思います。 現在手製本している「あいをしらないあなたをしらない」は、「くらげランプ」が元になっています。ここに収まっている640節を文節単位で解体して、「そらける」と「本日祝日」という2冊を作りました。それらに何度か加筆修正を繰り返した後に、再度編集し「遠女」という本を作りました。それをまた加筆修正したものが「あいをしらないあなたをしらない」になっています。m(. . )m


どこまで見せても
あなたじゃないし
どこまで逃げても
かくれていなくて
およそ人間に必要なものは
多くの人が必要としている。
あなたがそこに当てはまるのかは、
今のところわからない事だけれど、
なんでもいいから言葉のぴぴを
偶然でもいいからかけることが
出来ていたなら
うれしいけどな。

このホームページの「連絡する」から送られたメッセージを、受診していない可能性がでてきました。
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カカシと遊ぶ子スズメは、気分が生む眼差しを頼りにして、物事から気分を味わうけれど、不意に訪れる様々な瞬間によって気分は様変わりしていく。
この時、気分に焦点を当て続け、無理やりコントロールしようとすると、気分への採点が始まってしまう。
低得点に感じるものを捌き、自分を裁いてしまう。そのことは何だかつまらなく思う。
だから自由に気分を味わう中で、眼差しがどうなっているのかだけを、気にかけていられたらと思う。それでこうならしょうがないと諦められそうだからです。
うまくいくかわからないけれど、やってみたい。
本来フレキシブルなものの固定に血眼になるより、自然で無理がない気がしています。
それでも気分が落ち込んでしょうがない時は、新しい眼差しを見つけられるチャンスに違いありません。
自然と自分が変化してくれたらいいけれど、うまく適応できない時は他人の力を借りに行こうと思う。世界は他人がその眼差しを持って作ってきた物事で形作られているから、世界のどこかに今の自分だからこそ見つけられる眼差しがあるんじゃないかなと希望します

肩書きとして、他称抽象化愛好家自称と詩情至上主義者を名乗る程でもなく名乗っていましたが、どちらも別々に思いつき別々のものとして眺めていました。
自分の感覚でしかなく、共通言語になれない「抽象化」と「詩情」に囚われていて、時折思い出しては、それぞれ他人と共有しようと試みてきたけれど、にっちもさっちもいきませんでした。
最近またそのような試みをしていて「カカシと遊ぶ子スズメ」という手製本本を作ったり、その過程で過去の覚え書きを読み返したりしている内に、別々だった「抽象化」も「詩情」も実は同じ屋根の下に住む2人なんだと、一緒に手を取り合っていたんだと、というか1人なんだと、ふと腑に落ちる感覚になりました。
私は何時でも大袈裟で大上段に構えた発言をしてしまうのですが、書いてきたことは普遍的な物事ではなくて、自分のみに適用できて自分のみが解読できる暗号なんだと言い聞かせています。
自分が面白がっている物事を誰かと分かち合える可能性は放棄したくないけれど、一先ず自分だけでも自分の言語を並べて、システムを理解したかもしれないことに感謝したいです。(観測できたシステムは、とても平凡なものでした。)
ここまでの試みで作ってしまったものは、情報ではなくて、暗号となってくれたらいいなと思う。誤読や添削や反論によって人のシステムへの理解に繋がれるなら有難いですし、この先もどんなに言葉の精度を得られたとしても、そのようなことに向かって言葉を投げかける他ない気もします。
「カカシと遊ぶ子スズメ」は、そこに心地よさを見られるといいなと思う。

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「カカシと遊ぶ子スズメ」のシステム

眼差しは物事(詩)を抽象化し、気分(詩情)を作る。

気分は、物事に対する眼差しを作っている。
眼差しは、物事を抽象化する為の態度である。
抽象化とは、物事と気分の間の変換現象である。

詩情は、用意された世界を生きる時よりも、世界を作っている時の方が感じる気がします。
でも時間のスケールを拡大したら、「用意された世界を生きる時」を生きた時間が過去となって認識できた時に、詩情を感じることができます。
それは子供時代を振り返って、何かを持ち帰るみたいな事です。

文字制限のある俳句や短歌は、1文字に意味や感情がのる日本語だからできるもので、詩の象徴として最も洗練された様式だと思う。
詩は、意識の中に宇宙の様相を映し出してくれる情報だと考えるけれど、その投影の仕方は2種類あると思います。
ひとつは、自分が詩の世界に入ること。
もうひとつは、詩が自分の中に入ることです。

小説や映画、漫画などは、きっと前者になることが多いくて、自分を生きることよりも、その世界に入ることが心地よくなるのかなと思う。
詩や短歌や自由律詩は、世界を供述する様な描写が少ない傾向があり、その結果、小さなビックバンを起点にして自分で宇宙を創造することになる。

しかしこの二つに明確な境界は存在せず、時間のスケールも人それぞれで、気分それぞれであるから、境界は定まらない。
自分にとっては何が心地よいのか、それは目先のことに囚われずに判断がつく様なら、うれしいけども。

詩と詩情について考えたら、ぼくは詩と詩情なしでは物事を見ていないことがわかりました。

詩は自分が詩である事を求めていないし拒絶もしない上に、詩という名前での認識にも拘りがありません。
それは、ぼくが「詩」や「詩情」と呼ぶものの関係や現象を、詩と詩情という言葉を介さないで親しんでいる人が沢山いると思うし、そこに優劣がないからです。

しかし、詩という言葉には重要な役割も意味もあります。なぜなら僕が詩という言葉のお陰で思考したり、認識を改めたり、感動しているからです。
そして何より、詩と詩情を言葉にする必要がある場合には、必ず詩と詩情という言葉が必要だからです。
詩と詩情は、その言葉がなくても親しめるけれど、その言葉が無かったら、何に親しんでいるのかを指し示すことが出来ません。じゃなくて、指し示したものの言葉を探した時に、1番適当で行き着く言葉が詩と詩情になるからです。

一般に、詩や詩情という言葉を使った時に思い浮かぶのは、自由律詩や俳句や短歌などの短い文章ではないでしょうか。
ぼくはこのような「言葉」を使っていて「形」のあるものは、詩の「象徴」だと考えています。もちろん「本命」にもなります(あらゆるものが本命という意味です)。
この時の「象徴」の働きとしては「美術館」のようなものだと考えます。美術館では、そこに展示されれば「何かある」ものとして再認識の機会を得やすくなります。形を持っている詩も、その形を取って仕舞えば「何かある」ものとして向き合いやすくなるのだと考えます。だからとても効果的だし力があります。素通りしてしまうものに立ち止まらせる力があると思います。
ただし、美術館の中で文脈を持って展示され、その結果「感動」した工業製品があったとしても、それはもともと美術館の外で意識から忘れ去られている部品だったりできるのです。
もしも僕たちが美術館に通うことが出来て、美術館での目の使い方を、美術館の外でも使うようになったなら、生活のあらゆる局面が再認識の場になるのです。
ぼくは一冊の本「きみは金色の雨になる」に出逢うことが出来て、感じることが出来た感慨を頼りに、「詩」と「詩情」について考察し、意識が世界へ向ける眼差しと、感慨が創造する宇宙の確かさを見つけました。
心地よくて、この本を何度も読むうちに、心の中で何が起きているのかを推察できるようになり、その心の動きを本の外に持ち込むことができるようになったのかなと思います。
自分にとっては、とても幸福なことだなと思います。

改めて詩とは何かと自分に問雨てみたら、「感慨をもたらす物事」と応えます。
自分が何に感慨できるのかは、自分次第なので、それぞれが別の人生を生きることに意味や価値、面白さをみいだせるのかなと思う。
自分次第の「自分」って何かと問雨てみたら、全知全能の外側の話しをしたくなるので、割と謎です。
ぼくには「謎です」だから、いろんな可能性が残っていて面白いと思う。
面白いから詩が好きだし、心地よくなれるので詩が好きです。

今までは、全てが詩になり得ると言っていたけれど、意識が認識できるものは、全てが詩だと思った。(ほとんど同じことだけど)
それぞれに感じる詩情の強さが違っていて、心地よさが違っているのだと思えた。
きっと全ては最初から詩で、こちらが何を感じ取れるのかにかかっている。かかっているけど、迫られるものではない。

詩は誰にも何も強要しなくて求めるものが何もない、詩であることすら必要としていない。
現実や夢や嘘やシミュレーションがあって、意識はそこに直面していて、そしてその都度何かを感じたり考えたりしている。
そういう現象を再認識する為に僕は、詩や詩情という言葉を必要としたようです。
だから「詩」も「詩情」という言葉も、僕にとっては何も特別なものではなく、崇高なものではなく、人より有利に立つための道具でもない。大上段に構えるものではなく、ただ自分にとって必要な言葉だったんだと思う。

いろんなものが不可分であることを、詩という言葉を通じて感じたのだけれど、この「詩」という言葉がなければこのように考えを巡らせてくることはできなかったと思う。
小さなスケールで物事を考え始めることが出来たから、整理することをできて、その枠組みをひろげることも可能になったのかもしれません。

詩という言葉から見つけられた心地よさを、自分の意識に映る全てのものに覆い被せようと思っています。
自分にとっての詩はなんでもないけど、なんでもあるのだと思う。それは価値と無価値が別のことではないのと同じことで、同じことなんだと思う。

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