詩(情)は
言葉を煮詰めたことで発見されたけれど
言葉より先に、それはありました。

塩が、海水の中にも、
エクレアの中にも
含まれているように
一度見つけることが出来た詩は、
あらゆる物事の中に
みつけることができます。

塩を甘いと感じる人は、
あまりいないと思います。だけれど、
答えのない詩と、
人の知覚や感情が
どのように結びついていたとしても、
そこに鏡を見るようにして
自分の姿を
見つけるだけです。

たとえ一般的な常識や、美意識から離れていたとしても
あなたの暗号解析装置が感応するなら、それだけで
言葉(器)の信号を拾ってくれるなら、それだけで
こんなにも幸福なことは
ないと思っています。それに
できることといえば、
ここに賭けることしか、ないと
思っています。

なんちゃって

-出典「あいをしらないあなたをしらない」038のページ。

自分が何かを見て、それをどう感じるのかは自分次第なことが多いはずだし、許されてることもあるけど、純粋に物事を見たり感じたりすることが何だかむずかしいな。というより、その感じたものを抱えて周りの状況と対峙することが難しいのかな。

何もかも詩になるけれど、必ず詩になるものは、1つもないっくて、詩の体裁を採用するなら動かなくなる。
作ったものは詩になるけれど、詩を作ることはできない。詩人以外の人が詩人だとも思う。
詩を自覚し詩に触れていくには、詩の様相を言語化するのがいいと思う。目と鼻をつけたら「混沌」は死んでしまうというが、詩はどうだろうか。誰も彼もの詩は死んでしまって、自分だけの詩が生まれるのかもしれない。
しかし、その必要が自分にはあります。
だからぼくの言う詩は、みんなの詩ではなくて、ぼくが詩という言葉に託すことのできるシステムと感慨です。
詩という言葉にぼくが託しているものは、ぼくが現実や夢や嘘などの世界を楽しんだり面白がるための方法です。
意識が世界を認知することの不思議と可能性を遊びたくて、詩という言葉を追いかけています。

詩を「詩情を喚起させるもの」と設定します。
詩情は「好きな世界観に触れる感動」と設定します。
感動は「自動的に起こる」と設定します。
自動的に起こることは「摂理の中」と設定します。
摂理は「無意識」と設定します。
無意識を「自分」と設定します。

詩を「好きな世界観に触れる感動を喚起させるもの」と設定します。
詩は「自動的に起こる」と設定します。
詩は「摂理の中」と設定します。
詩は「無意識」と設定します。
詩を「自分」と設定します。

それで、設定を解除して、
息を吸います。

ガードレールに詩情を感じにくいのは、ガードレール有無に対しての興味の比重が少ないから。
ただしガードレールを設置している人や作る人、救われた人、つまりガードレールに普段関わっている人にとっては、別の話かもしれない。
ガードレールの形や素材、設置場所は言語となり、人の心の機微の反映を印象させる扉になり得る。
わかりにくいので別の言葉を探すと、「人によって、ガードレールは言葉であり得る」。
ガードレールに限らず、あらゆるものが言葉(詩)になれる。
だから今の自分を信じられるし疑うこともできる。
あなたは知っているが、同時に知らない。
ガードレールの例のように、全知全能(なんちゃって)の外側を知る機会が訪れない。
それを知っているから、もう、超常現象にも人智を超えた存在にも臆することができない。
ぼくは「全て」を楽しむことが出来ないから、自分からはじまっていくものを、最後は頼りにしてみたいです。

詩についての覚書です。
詩情とは、自分が詩情世界を生成する時に感じる感慨ではないか。
詩情を感じたことで詩情世界を生成するのではなくて、その逆の順で現象しているのではないか。
人がアニメや映画から抜け出せなくなるのは、人が詩情世界を必要としていることの証明になりはしないか。
アニメや映画は、人が自分の中に自ら生成する詩情世界を、代わりに生成したものでありえる。だから詩情を感じることは少ないが、夢中になる。
詩情は、たいがい好意的な性質をもっていて、不要なものに感じることがあるのか思い出せない。
ひとが強く詩情を感じる時、恐らく人は、何かを補完(生成)し終わっている。故に、そのための余地が必要だと思う。
小説を読んで、その舞台や登場人物、空気の色や味などを想像するように、人は詩(文字に限らず)から詩情世界を生成し、そこに詩情が伴う。
人それぞれが生成する詩情世界は、宇宙の真実の姿で、人(意識)の数だけ存在する。
それだから、詩情を通して人は、宇宙とか意識とか「そのもの」にふれることができる。なんちゃって。

今思いつく自分にとってのマンデラエフェクト
– 直江兼継→直江兼続 (読めなくなった)
– トイストーリー ウッディのベストが赤茶色→牛柄
– 自由の女神のある島 エリス島→リバティー島
– 富士山の標高 いっても3500mくらい→3800m
– ボルボのロゴマーク  矢印無し→矢印有り
– フォルクスワーゲンのロゴのvとw  離れる→くっつく→離れる  (戻りマンデラ)
– 音楽室ベートーヴェンの肖像画 羽根ペン→6角鉛筆 (顔もちがう)
– オーストラリアの位置  太平洋中央らへん→東南アジア寄り
– 他にもいろいろあったけれど、ちょっと忘れてきた。
どなたかマンデラエフェクトを気にかけていらっしゃる方おられませんか?

映画をあまり見ないのですが、最近たてつづけに「詩人の恋」と「レイブンズ」と「ワンバトルアフターアナザー」を見ました。今までの好きな映画は「しあわせ(クロードルルーシュ監督)」「ペーパームーン(全部を見たことない)」「パリテキサス(後半しか見たことない)」「雨の日は会えない。晴れた日は君を想う」「ランボー怒りの脱出」とかです。

ぼくは「詩」について興味があり、そのつど思うことを書き留めています。
矛盾していたり論理の飛躍がありそうなんですが、書くことが心地よいので、書こうと思う。

空の器の「空」というのは、「強要するものではない」というニュアンスで、「シンプル」とか「装飾的じゃない」などの意味とは異なると思っています。器を手にした人の手に委ねられるものであるということです。
この「器」というのは陶磁器やガラスや木工品に限定されるわけではなく、別の名前で呼ぶと「言葉」になると思います。受け手がそこに何かを託し引き出すもののことです。

夢の中にだけ存在する「いつもの街」のように、詩情という感覚を通して触れることのできる「街」。その街はやがて国になり星になる。部屋でもいい。慣れていけたらきっと宇宙にまで拡がっていく。ぼくたちは「現実」と表現されるような世界を生きていながら、同時にそれぞれの詩情世界をも生きている。現実を生きているようでいて、その実、現実の中に詩情世界の反映を見ている。

手製本本「あいをしらないあなたをしらない」ができました。

好きな自分を選べるために。
好きな世界を見られるものを、作りたいと思いました。

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